14世紀前半のサント・スピリト門は城壁の南西方面に開設されますが、メディチ家時代に入ると城壁が縮小されたことから、16世紀半ばに城門は町のより内側に再建されました。当時城門には「聖母子」像が置かれていましたが、現在はアレッツォ市庁舎の2階に飾られています。メディチ家時代のサント・スピリト門は、近くのクラリッセ修道院の名前で呼ばれていました。
1893年に城門は撤去されますが、撤去前に長い激しい論争が展開されました。城門が撤去された跡地には、新たにサント・スピリト稜堡が建設され、解体されたアーチ門はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の玄関アーチとして利用されました。サン・ヤコポ教会はその起源が少なくとも18世紀まで遡ります。教会は最初の所有者ジェロソリミターニ騎士団からローディ騎士団に移り、最後にはカトリックの騎士修道会であるマルタ騎士団が所有していました。古い資料によると、当時「アレッツォ・テンプル騎士団」教会と呼ばれ、建物の外側と内側にマルタの十字架が飾られていました。
サン・ヤコポ教会がそびえていたサン・ヤコポ広場は当時、建築家のA.チェティーカとM.メルカンティーニ、工学者U.カッシが起草した1946-48年の都市再建事業で既に著しい変容を遂げていました。1967年に売却された教会はすぐに取り壊され、教会跡にはウピム(大衆デパート)の建物が建設されました。イタリア通りのフォッソンブローニ宮殿は、彫刻家であり建築家でもあったアンドレア・サンソヴィーノ(1467-1529年)の設計と言われていますが、歴史研究家アンジェロ・ターフィはその仮説を否定しています。
1階の正面玄関と2階の窓を飾る切り石積みに特徴づけられるように、宮殿のファサードは強靭な印象を与えます。宮殿内部はマドンナ・デル・プラト通りまで広がり、装飾されたヴォールト天井の玄関広間と二重構造になった中庭に特徴づけられています。切り石積みの正面玄関で飾られたスパダリ宮殿は、簡素なルネサンス様式のファサードを持っています。商業店舗となっている1階からは見えませんが、1階の玄関広間はテオフィロ・トッリが描いたグロテスク装飾のフレスコ画で飾られています。2階の格天井には花が描かれ、壁面は19世紀初期のフレスコ画で飾られています。
1階店舗には16-17世紀の石製の大きな持ち送り3本が張り出しており、スパダリ家の紋章を表しています。これらの持ち送りで支えられた通廊からは、かつて宮殿裏手の塔と隣の建物に行くことができました。建物は現在、中庭付きの邸宅3軒と塔で構成されていると思われます。サンタ・マリア・マッダレーナ教会と付属の修道院は、その起源が14世紀まで遡ります。ジョルジョ・ヴァザーリと思われる設計を基に、1561年に教会が拡張されました。この同時期にメディチ家コジモ1世の命令によって、司教の権力の象徴であり、都市国家アレッツォの象徴でもあったピオンタの丘の旧ドゥオーモが破壊されました。
アレッツォの民衆はこの破壊から、旧ドゥオーモに飾られていたフレスコ画「聖母マリア」像を救い出しました。パッリ・ディ・スピネッロによって描かれたこの肖像画は、当時「バラの聖母マリア」、あるいは「花の聖母マリア」と呼ばれ、人々から深い信仰を集めていました。
「バラの聖母マリア」肖像画はサンタ・マリア・マッダレーナ教会に運ばれた後、18世紀に旧古の聖道(現ガリバルディ通り)にあるサンティッシマ・トリニタ教会から移された石製の祭壇に飾られました。この祭壇は16世紀初期に、ギョーム・ド・マルチラの設計でサンティ・スビッソによって彫られました。18世紀にサンタ・マリア・マッダレーナ教会に移された際に、簡素な祭壇はバロック様式のスタッコ細工で飾られ、今日でもそれを見ることができます。(祭壇は現在、ドゥオーモの「慰めの聖母マリア」礼拝堂に飾られています。)建築家ジュゼッペ・カステッルッチの豊かな知識と創造力のおかげで、サン・ミケーレ教会は1931年に偽ゴシック様式のファサードに生まれ変わりました。教会の再建は、20世紀前半の歴史の波に翻弄されたエピソードの一つと言えます。
最初の大規模な修復工事のため、教会は1914年から閉鎖され、1925年に再開されました。しかしその6年後の1931年に、束縛や制限を受けずにより自由に教会を再建したいという強い意思の下に、教会は再々建されました。サン・ミケーレ教会は歴史地区の目抜き通りである、イタリア通りの中心にある同名の広場に建っています。17世紀のグアッツェシ宮殿は19世紀にアリオッティ家によって購入され、現在はアレッツォ芸術クラブの本部になっています。宮殿のファサードには17世紀のグアッツェシの胸像が飾られ、錬鉄製のバルコニーの欄干にも注目できます。宮殿内部の2階に上がる階段で、パッリ・ディ・スピネッロ(1387-1453年)制作のフレスコ画で飾られた壁龕を見ることができます。この壁龕は明らかに、異なる構造を持った最初の建物に存在していたものです。
1階は展示スペースとなっている最初の広間を横切ると、金属で造られた独特の小劇場に入ることができます。アレッツォでは非常に珍しい劇場の一例で、貴族の私邸で催し物を上演するための小劇場として使われていました。現在のファサードは18世紀の改築時のもので、りっぱな玄関と階上のテラス、現在の玄関広間と階段が改築されました。錬鉄製のテラスの欄干に、最後に改築された日付が今でも読み取れます。
2007年には宮殿内の古蔵で、古代ローマ時代のモザイク画が発見されました。その起源は紀元2世紀まで遡り、古蔵の床面180平方メートル以上に渡って両生動物が描かれています。
1800年もの間発見されずにいたこのモザイク画の発見は、考古学上非常に重要な意味を持っています。専門家の解釈によれば、その大きさと装飾のモチーフから、おそらく古代ローマ時代の大邸宅にあった浴場か水浴場の床面ではないかと言われています。宮殿内はアルベルゴッティ家の古文書と著しい数の絵画コレクションが収蔵されています。2階には非常に美しいフレスコ画が描かれた大広間があります。16世紀に造られたと思われる庭園には、宮殿2階と宮殿裏手のデッラ・デア小通りから行くことができます。
庭園は19世紀の設計を基に最近原型通りに復元され、以前の水準以上になっています。宮殿2階には、庭園に通じる通廊と階段があります。デッラ・デア小通りに隣接して、石垣にもたれるように田舎風の興味深い東屋が2棟建っています。サン・ジュゼッペ教会は17世紀末期に、サン・ジュゼッペ・デル・キアヴェッロ修道会によって建立されました。教会正面のサラチーノ通りから教会横のマルチャネッロ小通りに曲がる角に彫られた石碑から、建立された日付が読み取れます。
18世紀初頭の数十年間に渡って教会は適度なバロック様式で拡張され、まるで宝石箱が大きくなったような価値ある小さな教会に生まれ変わりました。木製天井で覆われた教会内部は軽やかなスタッコ細工で装飾され、サン・ジュゼッペ病院にかつて飾られていた彫像「聖アントニオ修道院長」が保存されています。フィレンツェ出身の彫刻家ナンニ・ディ・バルトロ(1419-51年頃)と非常に近い血縁を持つ彫刻家の作品と思われます。バルトロメオ・アンマンナーティによって設計された16世紀のサンタ・マリア・イン・グラーディ教会は、ロマネスク・ゴシック様式の輪郭を持つ中世初期の教会の一つです。教会内で最近修復された、トスカーナ派のテオフィロ・トッリの作品と思われるフレスコ画を見ることができます。17世紀に制作されたフレスコ画は、続いて19世紀に漆喰が塗られました。
聖人たちの肖像画と彼らの小さな殉教場面、小天使たちが描かれたフレスコ画は、フィレンツェ派の末期マニエリスムの影響を受けています。手足が木のように堅い印象を受けますが、生き生きと力強く描かれています。ゴッツァリ宮殿は18世紀の改築によって、ファサードが大きく変更されました。カヴール通りに面して元の建物にあった大きな商業用の回廊が取り壊され、その代わりに玄関広間が置かれました。
宮殿内2階には小さいながらもりっぱな暖炉と、スタッコ細工で装飾されたアルコーブが保存されています。宮殿裏手のガリバルディ通りに面したテラスには、13世紀に築かれた古い城壁の痕跡が残っています。現在のサンドレッリ宮殿はカヴール通りに面してファサードを持ち、動線的に垂直方向への広がりを持っています。16世紀に建てられたサンドレッリ(グァダーニ)宮殿の1階に、かなり価値の高い柱頭で飾られた高貴なヴォールトを見ることができます。ヴォールトの1つには、グァダーニ家の紋章が浮き彫りされています。宮殿内2階には価値ある大きな客間があります。
ガリバルディ通りに面したテラスには、孤立した庭園が設けられています。建物の境界線には、12世紀の古い城壁の痕跡が残っています。13世紀にベネディクト修道士たちによって建立されたバディア教会は、1565年からジョルジョ・ヴァザーリによって完全に再建されました。教会内陣の上部を覆う偽クーポラ(だまし絵)は、アンドレア・ポッツォ(1642-1709年)が1702年に制作したもので、1992年に修復されました。
この修復でだまし絵の並外れた効果を創作できる、画家ポッツォの熟練の技がより明白にされました。彼はバディア教会の他に、ローマのサン・イニャツィオ教会とウィーン大学の教会に偽クーポラを描いています。1876年7月15日に創設されたフランチェスコ・ペトラルカ文科高校は、それ以前の1856年から学校として機能していました。学校内には貴重な昔の科学器具が保存されています。
高校がある宮殿は1920代に拡張され、17世紀の元ジェスイーティ寄宿学校の南側正面に面した中庭に新たな建物が増設されました。続いて1930年代の都市環境整備事業の一環として、元寄宿学校の高い石壁が取り壊され、その代わりにカヴール通りに面して現在の柱廊が建てられました。カッシ宮殿のファサードを飾る漆喰壁画は、20世紀初頭にガリレオ・キーニによって描かれた作品で、ファサード上部にある円形の浮き彫り肖像画の中にそれが記述されています。
宝石箱のような20世紀前半の見事な宮殿は、絵画・建築学的にアール・ヌーヴォーの影響を受けています。最近行われた優秀な修復作業のおかげで、ファサードの装飾壁画は良い状態で保存されています。花綱装飾と子供の画像が描かれた豊かな寓意画の中に、画家キーニ独特の色調を見ることができます。1861年のカヴール通りの拡幅工事を皮切りに、鉄道の開通(1867年)とグイド・モナコ通りの開通、サン・フランチェスコ広場の整備(1870年)など、古い町は近代化の時代を迎えます。
19世紀のデ・ジュディチ宮殿ファサードのフリーズに掛けられた、大理石製の碑文がそれを物語っています。拡幅されたカヴール通りには散歩する人々で溢れ、当時の町の宮殿はデ・ジュディチ宮殿に代表される掻き絵装飾で壁面が飾られました。ヘレニズム時代の地層は、何らかの建物があったと思われる地質構造になっています。古代ローマ時代の地層は居住地域と思われ、その上にローマ帝国時代の墓地が積み重なっています。それ以降の中世期の地層には、13世紀末期に教会が建設される際の作業現場と思われる土台が積み重なっており、3つの窯らしき跡が残っています。
最後のルネサンス期と思われる地層には、教会につながる地下墓地の残骸が残っています。このようにサン・フランチェスコ教会は古代ローマ時代の地層に支えられながら、町の最も奥深い歴史の中に根を下ろすように建っています。